紀伊半島の環境保と地域持続性ネットワーク 紀伊・環境保全&持続性研究所
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 地域出身の人物像 ・記念館

 人物記念館  

 郷土の生んだ人物は、文学、学問など様々な分野で、わが国の歴史を切り開いてきた。彼らの業績や足跡を顕彰する記念館等がゆかりの地に建てられています。もっと多くの施設があるかと思いますが、下記に列挙しました。
 
尾崎咢堂記念館      三重県伊勢市
佐佐木信綱記念館     三重県鈴鹿市
大黒屋光太夫記念館   三重県鈴鹿市
谷川士清旧宅 NEW    三重県津市
芭蕉翁記念館
        三重県伊賀市
松浦武四郎記念館     三重県松阪市

御木本幸吉記念館
     三重県鳥羽市
本居宣長記念館      三重県松阪市
佐藤春夫記念館      和歌山県新宮市
西村伊作記念館      和歌山県新宮市
南方熊楠記念館      和歌山県白浜町

犬飼万葉記念館
      奈良県明日香村
富本憲吉記念館      奈良県安堵町


 <解説>

 谷川士清(ことすが)

 1709年(宝永6年)に伊勢の国(現在の津市八町)に医者の長男として生まれる。父の義章が、医者であり学者であった影響もあったが、谷川士清は12歳にして早くも難しい漢方医学書を読み終えるといった才能の持ち主であった。21歳の時に、京都に上り、医学や本草学を学ぶほか、儒学、神道(しんとう)、歌道などを学んだ。京都遊学中に、国学の実力は門人を持つまでになっていたという。
 
 27歳で津に戻った後、町医者として働くかたわら、自宅で洞津谷川塾や神道道場を開き、多くの門人を抱えるようになり、全国からもその学識を慕って教えを請いに来たという。

 谷川士清の国学者としての業績は、「日本書紀」を全巻通釈した「日本書紀通證」)全35巻を著すとともに、日本語の動詞は50音の行にそって活用するという法則を見つけて理論化し、「日本書紀通證」第1巻付録の「倭語通音」によって示したことである。また、約2万1千語を収録した、あいうえお順の国語辞典である「倭訓栞」全93巻を著したことである。「倭訓栞」は現代国語辞典に繋がる貴重なもので、「大辞林」などにも引用されている。

 江戸時代に、近代日本に繋がるような功績を挙げた谷川士清の学識を称えるとともに、「日本書紀通證」を書き始めてから出版するまでに30年、「和訓栞」にいたっては110年後(明治20年)に子孫の尽力により全編の出版が完結したが、学問にかけた本人並びに家族と子孫の情熱と執念に感服する。

 谷川士清は、松阪の町医者であり国学者でもある本居宣長よりも21歳年上であるが、両者は手紙をしばしば交わし、本居宣長による「古事記伝」の著述に影響を及ぼしたとされている。それにしても、谷川士清と本居宣長の教科書などでの扱いには大きな差が見られるが、谷川士清の功績はもっと見直されてもよいと思う。
 
 谷川士清の墓地(国指定史跡)は、八町の旧宅近くの福蔵寺にあるが、隣には小さな谷川神社があり祀られている。そして、境内には、「反古塚」と記された石碑があるが、谷川士清自らが著述の際に書き残した多くの下書きを埋めて反古塚としたものである。これは、正本を完成させる前に書き付けた様々の下書きが、後世に異説として出ないようにするためであるという。反古塚から、谷川士清の学問に対する良心的で真摯な態度と、自らが心血を注いだ学問の下書きに対する思い入れが伝わってくる

 松浦武四郎

 1818年(文化15年)に伊勢の国(現在の松阪市小野江町)に生まれる(クリック)。松浦武四郎は好奇心の旺盛な自由人として、十代後半から全国を巡り歩くこと自体を目的に、あるいは天竺(インド)へ行くために朝鮮半島に渡ろうと旅をしていた。しかし、その間に、当時、事情があまり知られていなかった北方(蝦夷地)の重要性について気付き、目を向けることとなった。

 松浦武四郎は単身東北津軽に至り、苦心してようやく蝦夷地に渡ることができた。幕末に、東蝦夷および西蝦夷(今の北海道)ならびに北蝦夷(今のサハリン南部)、千島を踏破し、その土地の地誌、アイヌなど少数民族の生活を詳細に調べ、日本の採るべき方針を幕府に示すとともに、自ら探査で見聞したことを多くの紀行文として出版した。その中で、探査で世話になったアイヌ民族の風俗や惨状などを世に知らせ、松前藩のアイヌ民族に対する扱い方を批判した。

 明治時代に入って、蝦夷地開拓判官(長官に次ぐ地位)を務め、北海道や各支庁の名称を提案し採用されるなどの功績を上げた。しかし、アイヌ民族を苦しめてきた松前藩の転封などの政策が進まなかったことや、上層部の賄賂体質などを批判して、明治3年に辞職した。

 
松浦武四郎は、探査の道々で詳細な記録を残しているが、アイヌ民族の文化を絵筆によって生き生きと紹介しており、それらは民俗学的な価値も高い。また、松浦武四郎は江戸時代でありながら登山を楽しみ、全国の名山を登ったり、様々な物品を収集し展示会を開くなど、多彩な趣味と才能を持つ人であった。更に、
幕末において、吉田松陰、藤田東湖などの勤王志士や幕府役人、書画の著名人などと、広く交友関係を持ち、当時のわが国にあってユニークな文化人であったことがうかがえる。

 NEW
 松浦武四郎は、蝦夷探検に関係する著作物、探検記録、野帳、地図、絵図、アイヌ民族資料や吉田松陰、頼美樹三郎などの勤王の志士、大久保利通、木戸孝允などの明治維新の功績者、富岡鉄斎などの画家文化人などからの手紙等、多くの遺産を生涯に残した。それらは松浦武四郎の子孫(東京と三重県に在住)によって関東大震災や空襲などからも大切に守られ保管されてきた。現在は、それらが松阪市小野江町にある松浦武四郎記念館に寄贈され、展示されている。

 これらの資料は「蝦夷地やアイヌ民族の歴史的、文化的研究にとどまらず、松浦武四郎が生きた幕末から明治維新の政治史、文化史を考える上でも価値が高い」として、国の文化審議会は、2008年3月21日に松浦武四郎関係資料1503点を国の重要文化財として指定するように文部科学大臣に答申した(内訳:著述稿本類511点、地図・絵図類59点、書籍類287点、文書・記録類372点、書画・器物類274点)。

 今年は、奇しくも松浦武四郎生誕190年、没後120年、6回目(最後)の蝦夷地調査から150年という節目の年であり、地元で記念事業も行われた。旧三雲町小野江に松浦武四郎記念館が建設される前は、地元でも松浦武四郎を知る人がほとんどいない状態であったので、その当時と比べて今回関係資料が国の重要文化財に指定されることになったのは記念館建設に尽力された旧三雲町長はじめ関係者にとって隔世の感であろう。また、あの世の松浦武四郎も自らの労作が国の重要文化財として認められ、大切に保管・利用されることを喜んでいることであろう。
 

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